朝食をとった後、蒼は本当に紅と一緒に風呂に入った。
ヒノキの浴槽は床を掘り込んで作ってある。
洗い場もヒノキの板が敷き詰められていて、香りだけでも癒される。
浴槽も洗い場も、全体的に広くて、清潔感が漂っていた。
(やっぱり理研の共同浴場とは違うよな。基本、シャワールームだったし)
理研ではシャワーや風呂は、清潔を保つ意味合いしかなかった。
実験の前後や売られる前に入念に洗われる程度で、普段は毎日入る習慣もなかった。
「風呂って気持ちいいんだなぁって、ここに来て初めて知ったよ、俺」
先に湯船に浸かっていた芯がしみじみ話す。
「そうだよね。理研じゃ三日に一回くらいしか入らなかったし。僕もお風呂、好きになれそう」
紅が蒼の頭をもしゃもしゃ洗って、湯桶でざばっとお湯をかけた。
「ニコもお風呂好きぃ。紅様と入るのが好きぃ」
湯船の中でニコが紅に向かいニコニコしている。
「俺も、ニコや皆と風呂に入るのが好きだよ」
今度は蒼の体を洗いながら、紅がニコに笑いかけた。
「あの、自分で洗えますから、大丈夫ですよ」
おずおずと申し出るも、紅に首を振られてしまった。
「本当は最初に俺が洗ってあげてるんだけど、蒼は初回を逃したからね」
確かに最初に風呂に入った時は自分で洗った。
「皆、洗ってもらったの?」
湯船に浸かる芯とニコを振り返る。
二人が普通に頷いた。
「ニコも洗ってもらったよ。紅
『瑞穂国創世記 ―第一章― 人と妖怪と神が、今より遥かに近しい時代。 昼も夜も曖昧で、天と地も今よりずっと近くにあった神代の頃。 人間と妖怪がより良い関係で互いに生きるため、惟神クイナは幽世・瑞穂国を作った。水が潤い喰うに困らぬ国であるようにと、この名を付けた。 幽世が歪まぬために「色彩の宝石」を臍に置き、国を維持した。 良き国を作るため、信を置く六柱の神に国を任せた。 神々には「色彩の宝石」を守るよう告げた。この宝石こそが幽世の理そのものであり、最も守るべき存在であると伝えた。 水ノ神・淤加美は現世では竜神であり、罔象の分身である。この幽世の神々の長となり、皆を纏める。水は命の源、癒しの力である。 日ノ神・日美子は現世では日向神の巫女であり、その神力を授かった神である。暗ノ神・月詠見は夜を守り月を読む神である。幽世の暗部を守る。 二柱が力をあわせると、強い結界が生まれる。その結界が幽世を守り、瘴気を浄化する。 風ノ神・志那津は若いが淤加美の信頼厚い神であり、強い神力と類稀な知恵を持つ。 火ノ神・火産霊は一度は現世に残り、代わりに弟神の佐久夜が幽世に入った。妖力が強い火の妖狐を側仕として伴い、やがて番となったが、神力弱く妖狐に飲まれた。その後、火産霊が幽世に入った。罪を焼き罰を与える火を使う。 土ノ神・大気津は現世では|保食《うけもち》の神であり、土壌を豊かにし豊富な作物を実らせる種を持つ神である。クイナと一層仲が良かった。人を愛し、人喰の妖怪を嫌った。それ故に、幽世の有様に憂いた。 クイナが作った幽世・瑞穂国は妖怪が住む国であり、人喰の妖怪も多くあった。 人を愛し、妖怪を愛し、神に愛されたクイナは「喰わねば仲良くなれるかと言えば、そうでもない。喰わねば飢えるは人も妖怪も同じ。抗うのも当然の摂理なら、喰らうも摂理。それでも共に生きる法を探したい」という。 大気津はクイナの言葉を汲み、自ら幽世の土となった。 「私が自ら土となり、多くの食料を実らせよう。人を喰わずとも済む食料を宿そう。いつか人を喰らう妖怪がなくなるように」と願った。
寝所を出て、広間に向かう。 途中、従者らしき者に声を掛けられ、奥の間に案内された。 部屋に入ると、文机とノートのような冊子に筆が、きっちりと準備されていた。「なんだ、もう平気なのか?」 後ろから志那津に声を掛けられて、振り返る。「急に眠っちゃって、すみませんでした。すっかり元気です」 深々と頭を下げた。 利荔に霊力を吸われた後、蒼愛は意識を失って倒れたらしい。 怖い声を聴いて、気が付いたら紅優に抱かれて寝ていた。「あれは利荔の無礼のせいだから、気にしなくていい。むしろ謝るべきは俺だ。すまなかった」 志那津に真っ直ぐに謝られて、ぽかんと口を開けてしまった。「なんだよ、その締まりのない顔は。余計に阿呆に見えるから、せめて口を閉じろよ」 指摘されて、慌てて口を閉じた。「調子が戻ったのなら、学びを始める。まずは漢字の書き取りから。ある程度の漢字を覚えたら、創世記の説明を利荔にさせるから。今日は漢字の書き取りをびっしりやってもらう。三日しかないんだから、効率よく集中して覚えろよ」「はい! わかりました」 志那津が早口でまくし立てるので、思わず背筋が伸びた。「志那津様、時の回廊は、今、どうしていますか?」 さらっと紅優が質問を挟んだ。「常時と変化ない。ここ数百年は誰も入っていないよ」 志那津が訝し気な視線を紅優に向ける。「実は先ほど、蒼愛の夢に何者かが入り込んだ様子で。声しか聞こえなかったんだよね? 姿は見た?」 紅優に質問され、蒼愛は首を振った。「真っ暗な場所で、声を聴いただけだよ。とても怖くて、逃げたんだけど、どこも真っ暗で、どこに逃げればいいか、わからなくて。ずっと紅優の名前を呼んでた」 思い出すだけでも背筋が寒くなる。 そんな怖さだった。 志那津が、あからさまに顔色を変えた。「どんな声だった? 男? 女?」「よく、わかりません。女性だったようにも思うし、男性だった気もす
「蒼愛……」 紅優の手が伸びて、蒼愛の涙を拭った。「こっちにおいで」 優しく肩を抱かれて、紅優の上に横たわる。「ごめんね、蒼愛。俺もちょっと寂しくなってた。蒼愛が遠くに行ってしまいそうで、怖くて。俺の蒼愛なのに、皆に愛されている蒼愛に、ちょっとだけ嫉妬した」 神々に会うたびに加護と称してキスしたり、それらしい行為をしてしまっているので、何も言えない。 そういうのも、きっと紅優を不安にさせているんだろうと思った。「もう、神様に会っても加護とかもらったりしないから……」「それはダメだよ」 紅優が蒼愛の言葉を遮って、ぴしゃりと言い切った。「神様の加護を貰って、神様に愛されるのが蒼愛の、色彩の宝石の務めだ。蒼愛はそれを受け入れなきゃ。勿論、俺もなんだけどね」 紅優の腕が蒼愛を抱きすくめる。「僕の全部って言ってくれて、嬉しい。どうしようもなく嬉しい。他の誰にも触らせたくない。どこかに仕舞い込んで俺だけの蒼愛にしてしまいたい。けどね、皆に愛されてる蒼愛を見ているのも、俺は好き。俺の大好きで大事な蒼愛を皆も大事にしてくれてるのが、嬉しいんだよ」 顔を上げると、紅優が優しく微笑みかけてくれた。「大事な蒼愛を失わないためには、神様の加護も、神に愛されるのも、今の蒼愛には大事だよ。身を守る手段になる。俺たちは今、淤加美様の試練の最中だ。試練を終えたら、永遠の祝福を貰えるでしょ」「あ! そうだった」 色々あって、すっかり忘れていた。 永遠の祝福を貰えれば、紅優とこれからもずっと番でいられる。「だから今は、頑張ろうね」 紅優の言葉に、蒼愛は素直に頷いた。「でも、紅優。もう、おまけ、なんて言わないで。僕が一番大切なのは、紅優だけだよ」 紅優が嬉しそうに蒼愛の目尻を指でなぞった。「そうだね、ごめん。蒼愛が頑張るのは全部、俺と幸せを見つけるため、だもんね。二人で芯との約束を叶えないとね」
暗い、只々真っ暗で、何もない。 目を瞑った時の瞼の裏より暗くて、まるで黒い絵の具を一面に溢してしまった空間のようだと思った。 誰もいないのに、たくさんの気配を感じる気がする。 大勢のようで一人にも感じる。 その誰かは、泣いているようだった。『……憎い、私を捨てた者たちが。嫌い、みんな喰われて消えればいい。総て壊れてしまえばいい、人も妖怪も神も、この世も。何もかも、消えてなくなればいい』 悲しい感情が流れ込んでくる。 同じくらい強い怒りの感情が、恐ろしかった。『お前が壊しなさい、蒼愛。この世を何もなかった頃に戻すの。お前は意志を持つ色彩の宝石。私の敵になってはいけない。神々にかどわかされては、いけない。真実を知りなさい』 何も見えないのに、何かが近付いてくる。 あれはきっと触れてはいけない何かだ。 聞いてはいけない声だ。 怖くて走って逃げた。「紅優、紅優、助けて、助けて!」「蒼愛! こっちだ。ここに居るよ。手を握っているよ」 右手に温もりを感じて、ようやく胸に安堵が降りた。「紅優、僕を引き上げて。紅優の胸の中で、抱き締めて」 呟きながら、蒼愛はゆっくりと目を閉じた。 目を開くと、紅優の匂いがした。 顔を上げたら、紅優が心配そうに蒼愛を見下ろしていた。「大丈夫? うなされていたみたいだけど、怖い夢でもみた?」 蒼愛は力いっぱい紅優に抱き付いた。 紅優の着物を強く掴んでも、手の震えが消えない。 そんな蒼愛に気が付いて、紅優が蒼愛の体を抱きしめてくれた。「誰かが、この国を壊せって。神様に騙されるな、真実を知れって」 紅優が息を飲んだ。気配が緊張したのが分かった。「あれは、聞いちゃいけない声だ。僕を、色彩の宝石を使って、悪いこと、するつもりの声だ」 思い出すだけで怖くて、体が震える。「蒼愛はそんな風に、感じたんだね」 紅優
「ぁ……、ん、ぁ……、これ、ダメ……」 口付けで吸い上げられる以上に体中に快楽が走って、疼く。 蕩けた目で、手を伸ばす。 紅優より早く、志那津が蒼愛に駆け寄った。「おい、大丈夫か? 利荔、吸い過ぎだ!」 唇を離さない利荔を志那津が突き飛ばした。 ぐったりと力が入らない蒼愛の体を志那津が受け止めた。「蒼愛! 具合が悪いのか? 霊力を喰われ過ぎたのか?」 志那津が、かなり心配している。 初めて見る顔だと思った。(初めて名前、呼ばれた、かも) 抱えてくれる志那津に抱き付く。 志那津の体がビクリと震えた。「いっぱい、気持ち善く、なっちゃう……。志那津、さま……」 持て余した快楽をどうしていいかわからずに、志那津に縋り付いた。 震える蒼愛の背中を紅優が摩ってくれた。「ありがとうございます、志那津様。やはり志那津様は、お優しいですね」「そういうんじゃない。たまたま、近くに居ただけ。利荔の不始末は俺の責任だから、それだけだよ」 いつもの不機嫌な顔に戻ってしまったのが悲しくて、蒼愛は志那津に手を伸ばした。「名前、呼んでくれて、嬉しい、です。僕、もっと志那津様と仲良しに、なりたい。笑った顔、観たいです」 自分から志那津に唇を重ねて、霊力を流し込んだ。 流れ込んだ霊力に反応して、志那津の腕が震えながら蒼愛を強く掴んだ。 顔を離すと、驚いた表情の志那津が蒼愛を見詰めていた。「僕の霊力、美味しい?」 小首を傾げると、志那津の顔が真っ赤になった。「お、おま、お前……。番の目の前で他の相手に口付けて、しかも自分から霊力を流し込むとか、馬鹿なのか!」 真っ赤な顔のまま、志那津が怒っている。 何故、怒っているのかよくわからない。
志那津の案内で更に宮の奥に進む。 奥に進むにつれ、本や物が増えてきた。部屋の感じも変わってきた。 広い廊下に沿って狭い部屋がいくつも連なる。 その奥の方にやけに大きな部屋あった。 入り口には、部屋に入りきらないのか、詰み上げられた本や布などが無造作に置かれていた。「アイツ、また散らかし放題に散らかして……」 志那津が舌打ちしながら愚痴をこぼした。「俺は人間と馬鹿が嫌いだけど、整理整頓ができない妖怪も嫌いなんだよ」 聞く度に志那津の嫌いなものが増えていく。 志那津が嫌いなものを教えてくれている、と言った方が良いのかもしれない。 眉間に皺を寄せた志那津が、散らかった部屋に不機嫌な足取りで入っていった。「おい、:利荔(りれい)! 執筆するなら実験の後片付けをしてから! 実験するなら執筆で使った紙と筆と資料を片付けてからと注意しただろ!」 志那津が部屋の中に怒鳴り込んでいった。 その姿を、紅優が可笑しそうに眺めていた。「どうやら、会わせてもらえそうだね」 呟いた紅優を見上げる。 「風ノ宮はね、別称が智慧ノ宮と呼ばれていて、志那津様は勿論、この宮に仕える者のほとんどが学者や文筆家や何かの専門家なんだ。瑞穂国の知恵の総てが風ノ宮に詰まっていると言われているんだよ」 蒼愛は只々感心していた。 今まで回ってきた宮とは、明らかに雰囲気から違うと思った。「志那津様が入っていった部屋の利荔って妖怪は、志那津様の側仕なんだけどね。文筆家であり郷土史や自然学の学者でもあってね。瑞穂国に利荔さんより賢い妖怪はないって言われるくらい何でも知っている妖怪なんだけど。瑞穂国創世記を書いた妖怪でもあるんだよ」「えぇ⁉」 前のめりになる蒼愛を紅優が嬉しそうに眺める。「書いた本人にならきっと面白い話が聞けるだろうし、会えたら蒼愛は嬉しいかなって思ったんだ」「嬉しい! 書いた本人に会えるなんて、思わなかった!」 現世でだって、作